―佐々木正美先生をよくご存じのお二人にお集まりいただきました―
2016年11月某日 ホテルパールガーデンにて
撮影:林昌子
大谷 17年ぶりねえ。でも、お互いの舞台では客席で観劇しあっていますけど。
小西 お久しぶりです。
大谷 95年の菊池寛ドラマ賞「願わくば」からでしたね。長いお付き合いで。
小西 佐々木先生がお元気だった時でした。
大谷 楽しい時代でした。
佐々木正美先生を忍んで
佐々木正美氏 (1931年~2000年)
(元)高松市芸術協会事務局長
《佐々木正美先生とドラマ・サロン》
大谷 今日は、佐々木先生のお話を中心にって事ですからね、お写真もいろいろ持ってきたんですよ。
小西 亡くなられたのが、2000年でしたね。「20世紀 出会いの旅」(作:佐々木正美)を車いすで観に来てくださいました。佐々木先生は脚本家としてもしっかり調べて熟して書かれていらっしゃいます。
大谷 まあ、台本をちゃんと保管なさっているのね。
小西 今でも参考にさせて頂く事があります。ここは?と思ったら、先生の脚本を見直しています。台本に書き込まれているんですよ、いろんな事が緻密に。
大谷 もう、私なんて整理してしまっているから、思い起こすのも大変で。(笑い)でも、懐かしくいろんな事が引き出されて来ます・・・。
小西 劇団歴が長いですから。
大谷 ええ。「劇団ドラマ・サロン」はもともと昭和34年に立ち上がった有線放送劇団「ドラマ・サロン高松」が前身。芝居好きが5~6人集ってワイワイやっていたと伺っています。
小西 座長は佐々木先生ではなかったんですね。
大谷 佐々木先生が初代座長になられたのは、放送劇団で舞台芝居をする事になってからです。古い話ねえ、昭和36年だから1961年ね。11月に舞台初演されたのが作、演出なさった「若い榾柮火が燃えている
」。亡くなられたのが2000年6月30日、68歳でした。
小西 そうでしたか。ほう。
大谷 私たち、佐々木先生の生前の年齢は追い越しちゃいましたねえ。(笑い)42年間、香川県の演劇の中心的な活躍をされた方なんですよ。
小西 当時からすると色んな事にチャレンジされましたねえ。
大谷 公演活動を通じて文化の発展と継承をお考えでしたから、高松市芸術協会の事務局長も長年されて来られたんです。文化庁招待公演での東京公演や、市政100周年からスタートした高松市、文藝春秋社との共催で全国公募の「菊池寛ドラマ賞」受賞作の公演も7年継続して上演しました。地に足の着いた活動をしてこられたのですけど、舞台では思い切りのいい演出でした。昔の市民会館で宙づりを初めてしたのよ。東京公演「袈裟と盛遠」では、本物の笹をたくさん舞台に運んできて、東京でよ。今は無くなった昴のアトリエでもあった三百人劇場でしたけどね、近くで用立てて、公演終わって、劇場の方々が近くで焼いて片づけて下さって、本当にありがたく思いました。
小西 大量の笹を持って帰る事は出来ないですね。今では焼くことも難しいですけど。(笑い)
大谷 そうなのよ。舞台演出でのチャレンジはすごかったわ。舞台は面白くなくてはいけない!と、観た人に元気になって帰ってもらう事を大切にされていた方だから、「単なるドタバタではいけない!美しくなければいけない!感動を抱いてもらえる作品創りを!」って。
小西 私はダメ出しをされた事がないですね。
大谷 それは小西さんが立ち姿や振る舞いが美しいからよ。当時、男性は佐々木先生、女性は私が役者には伝えていました。役も佐々木先生と私がタッグを組んできたから、そりゃあ、佐々木先生という相手役がいなくなった事が一番寂しいわ。今年、先生没17回忌になります。二代目座長ををお受けして、17年になりますから、団員も昔を知らない人が多くなりました。
小西 そうですねえ・・・。先生は最期まで演劇人でしたからね。
大谷 あそこまでの立派な演劇人はいないと思う。もう、出会うことはないのでしょうね。劇団ドラマ・サロンの意志をつないでいきたいと思います。そして継承する事が、私の使命だと思っています。
国民文化祭かがわ‘97のプレ演劇公演「八丈島 水汲み女―その愛」
舞台「宮武骸骨」のラストシーン
《今が一番若い》
大谷 佐々木先生と舞台をご一緒出来たのは、1999年11月「宮武外骨」が最後です。夫婦役を演じさせていただきました。人生を悟った二人がこんぴら舟々を舞い、幕が下ります。その頃には先生はすでに痩せていらっしゃったけど、翌年4月に「曽根埼心中~佐々木正美リサイタル~」を開催する事も企画なさって。入院先の病院からおけいこ場に通われる状態でも、着々とチラシが出来、招待券をお送りする段階まで公演をするはずでした。でもね、耳が聞こえなくなり、声がでなくなり・・・。それでも舞台をとお考えでしたけどね、皆様にご迷惑おかけする事も出来ないでしょう。苦渋の判断でいらっしゃったでしょうが、中止に・・・。ご招待させていただいた方々にはお知らせして・・・3か月後の6月にお亡くなりになるのだから・・・。リサイタルを実現させてあげたかった。
小西 「20世紀~」を車いすでご覧になられて・・・。
大谷 先生はやり残した事はあると思うの。ですけどね、芸術に理解ある良い時代にお芝居が出来たと思います。2001年には追善公演「曽根崎心中」を脚色、演出、二代目座長、大谷智勢子として、上演させていただき、大勢で先生を偲ばせていただきました。
小西 そうでした。考えると大谷さんが劇団を引き継がれても長いですね。
大谷 ええ、座長、主宰として17年になります。佐々木先生には、最後まで同志と思っていただけたのね。「辛抱強く頑張って下さい。公演活動を続ける事が文化の土壌が出来るものです。一度きりの人生の招待状を有意義にしましょう。辛抱強く頑張って下さい。」この言葉が遺言でした。劇団を頼みますと、何度もおっしゃられて。引き継いで17年ですね。プレッシャーもありました。年3回の公演で、50回ほどの上演回数です。私自身の事で申し訳ないですが、「藤十郎の恋」という一人芝居で第二回ブルーポラリス主演賞をいただきましたが、これも劇団ドラマ・サロンとしていただいたと思っています。
小西 私もご縁があってお世話になりました。昔から芝居は観る事が好きでしたねえ。イベントプロモーション協会を立ち上げて、その中で「さぬき芸能曼荼羅」という作品を上演したんです。それが1月でしたね。それを佐々木先生にお伝え下さった方のおかげで11月に第4回菊池寛ドラマ賞「願わくば」に出演させていただいて。
大谷 適役でしたよ。
小西 次の年の「八丈島 水汲み女―その愛」、国民文化祭かがわ‘97のプレ事業でしたし、5回菊池寛ドラマ賞でしたね。翌年永六輔さん原作の「大往生」はミュージカルで(写真を見る)自由にやらせて頂いて、楽しんで夢中でした。
舞台「大往生」台本と写真
大谷 そう、この顔!小西さんと言えば寅さん!楽しい劇だったわ(笑い)。私は脇信男(元市長)さんと寸劇をやって、笑っていただいたり。
小西 懐かしいですね。当時、同年代や脇(元市長)さんとも、盛り上がりましたね。みんな楽しんでいました。でも、余りにも夢中で、自分の会社から怒られまして(苦笑い)三年ほどお芝居から離れなきゃいけなくて。
大谷 社長さんだし、男性は大変よね。なかなか続ける事が出来ないみたい。
小西 仕事がおろそかになっていたんですね。離れてもそれでも、やっぱり好きなんですねえ。
大谷 そうよ。やらないでどうするの!一度きりの人生!今が一番若いんだから。
未来を語る
小西金太郎・・・高齢者劇団「エルダーキャッツ」団長・俳優
YouTubeに動画をアップしています。「エルダーキャッツ」で検索できます。
《高齢者劇団》
小西 2000年に香川県芸術祭「シアターワークショップ」で、役者として参加させていただきました。
文学座の西川さんの演出で「紙谷悦子の青春」に出演。その後も「シアタープロジェクト」で山の手事情社の方々にも刺激を頂きました。一方、高齢者協同組合の中で劇団を創ろうと、マグダレーナの大塚さんがご尽力下さって「エルダーキャッツ」が生まれました。2003年、12月私が69歳の時です。
大谷 大塚さんもご一緒にされていたわね。
小西 7~8年軌道に乗るまでお世話になりました。
大谷 ずいぶん注目されましたものね。
小西 はい、翌年にはサンポートホールこけら落とし「すてたらあかん」。2005年上演した「てんてこまい」は、愛知万博で再演しました。
大谷 演出は大塚さんでしたね。小西さんはやっぱり役者よ。
小西 心理を描いていくのが遣り甲斐ですね。大谷さんも佐々木先生も役者ですよ。
大谷 そうね。でなければ、財政面や運営等での苦労も出来ないかもしれないわねえ。劇団活動は総合的にマネージメントする必要がありますね。小西さんは舞台装置もご自分でされて、見事ねえ。
小西 看板屋ですからね。舞台人としての姿勢を、少しでも目標としてもらえる様に頑張るしかないですね。
大谷 今年かがわ文化芸術祭演劇祭に作品を出されますね。もう、追詰ね。
小西 2週間後ですね。今は週三回の稽古です。
大谷 毎年公演するのも大変な事だけど、それはやり続けていかなきゃね。
小西 そうですね。続けてやっていく・・・やってきた事をまとめていってます。
大谷 あら、整理はまだ早いわ。100歳まで頑張らなきゃダメよ。(笑い)
大谷智勢子・・・劇団ドラマ・サロン座長、女優
日本朗読文化協会講師、第二回ブルーポラリス主演賞受賞
《菊池寛にこだわる》
小西 多くの菊池寛の作品を観させていただきました。
大谷 1988年菊池寛生誕百周年、劇団ドラマ・サロン結成30周年記念公演菊池寛の名作「恩讐の彼方に」を上演しました。菊池寛ドラマ賞を高松市が主催、文藝春秋が共催で取り組まれる時期がありました。全国から募集して素晴らしい作品を舞台化するという趣旨で、7年続きました。
小西 素晴らしい企画ですね。
大谷 長年、菊池寛の作品を上演してまいりました。菊池寛ドラマ賞受賞作品の公演は、もちろん私たちもプレゼンに参加して、結果、指名を受け舞台を担当させていただきましたが、郷土の偉人としてだけでなく、菊池寛の功績や人間像を知っていただきたい思いが、どこよりも強かったと思います。
小西 菊池寛が、直木賞、芥川賞を創設された功績は有名ですね。
大谷 彼の作品の素晴らしさもあるけれど、自分だけでなく作家の生活、社会での地位向上等、時代を見据えてたくさんの功績をされています。郷土の先人、文化人としても若い世代にももっともっと伝えていきたいの。
《これから》
大谷 私は菊池寛顕彰委員会のメンバーなんですが、高松市教育委員会主催で「寛学」という取り組みで市内小学校を巡回公演をしています。菊池寛作品を「青の洞門」「三人兄弟」を語り芝居や劇などで子どもたちに分かりやすくしています。それでね、2年後、2018年が菊池寛生誕130年で、没70年という節目の年となります。その年が市内50校を回り終える年でもあるんです。
小西 それはすごい!
大谷 2年前から1年に10校ずつ回っていく予定で始まりました。今年で30校終わりました。これはふるさと教育としても意義のある取り組み。子どもたちから、たくさんの感想やお手紙もいただいて、宝物!もちろん、島にも伺って、男木島では島民の方々も観劇して下さって。これからの社会を作っていく皆さんに「寛学」が何かの力になればと願います。そして、うれしい手ごたえも感じています。また、その年には・・・そして、プレにあたる来年もね、今からしっかり企画をと思っています。小西さんは?
小西 エルダーキャッツは、平均年齢が70歳になります。大きな舞台から、少し方向転換して20分程度の短編作品を10本ほど作りました。慰問公演などもしています。
大谷 そうなのね。ご年配の方々にも喜んでいただけるでしょう!
小西 「国定忠治 さぬき路を行く」等、大衆的な作品は皆さんに喜んでいただけるんですよ。いずれ私たちもお世話になるところですし(笑い)、
大谷 それは喜ばれるわ。観る人に喜んでいただける作品にするのが一番大事よ。メイクもしっかりして化けましょう。
小西 (笑い)白波五人男や弁天小僧!
大谷 やりましょう。白塗りしたら、私たちでも若い役が出来るわ!(笑い)見て見て、こんな写真も出てきたのよ。
若かりし日のお二人のカラオケ写真
編集後記:お二人の前では、年齢での言い訳はタブーですね。
(笑い)が多い文面ですが、生き生きとした楽しいお話をたくさんお伺いしました。