弔辞 



                              2013年3月30日      

                                               荒木昭夫


八木亮三さん
 お元気ですか。そちらの世界では、たくさんお仲間がいらっしゃるでしょう。
 道井直次さん、永田靖男くんや、宮坂暉雄くん、そして照木ひでひろさんなど、と。
 私もまもなくそちらへ参りますから、その時はもっとたくさん、お話をしましょう。八木さんはお酒をお飲みにならないから、きっと おいしい「お魚」の話でしょうね。
 でも今日は、こちらの世界での「懐かしいあのころ」のお話をします。


 西日本児童演劇協議会(略称・西児演)が生まれたのは1960年1月で、なかなか大変な時代でした。
 始めは、ただの「親睦会」でしたが、でも年2回の「出会いの会」でしたから、急速に盛り上がり、3年目夏の第6回総会では、はや児童演劇運動の根幹を決める「綱領的議論」に発展していて、会場も京都・黒谷(くろだに)金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)本堂の一隅でした。
 その翌年一月、第7回総会は、松山道後・神泉閣でした。愛媛の畑野稔先生の「こじか座」のお骨折りで、それが四国で最初の総会でした。そのとき、八木さんとお会いできていたのか、それとも畑野稔さんの紹介で、高松のRNC放送劇団に八木亮三という人がいる、と告げられただけであったのか、今では定かではありません。その西児演は1970年から「全児演」と名乗り、全国的な活動に入りました。そして劇団RNCが正式に全児演のメンバーに加盟されたのが1973年夏の大宮総会でした。
 高松市で初めて総会を開いて戴いたのは3年後の76年夏。さらに4年後の81年夏には小豆島、国民宿舎でテーマは「地域に根ざす演劇、土に根ざす演劇」でした。
 この時、八木亮三さんは、次にこの小豆島で、「全国的な演劇祭を開催したい」と発言されました。これは「画期的で勇気のある」発言でした。この「ことば」が、実はあの「85・夏・佐渡」の祭典となる「最初の言葉」だったのです。
 初めての全国的な演劇祭典というなら、「もっと東京に近い方がいい、その方がマスコミに対してもアピール度が高いから」と言うのが、小豆島ではなく佐渡になった理由でした。
 八木亮三さんは、譲歩してくださいました。でもさぞ「くやしかった」ことでしょう。
 しかしその頃、全国に展開した子ども・親子劇場運動は、画期的な高揚に向かっていました。かの「85年・佐渡大祭典」を目前に控えた84年夏、高松市で開催された全国子ども・親子劇場、第8回大会は、子ども劇場中四国連絡会主催のオープニングを飾る大ドラマスクール「私たちの海」を上演することになりました。八木亮三さんと劇団RNCはその創作・上演に惜しみない貢献をなさいました。加えてその振付に曽根三津子さんの大活躍もありました。出演者1200名の大ページェントはこうして成功を収めたのでした。
 丁度この時期、八木亮三さんは、全国児童・青少年演劇協議会(全児演)の事務局長としてその役を担ってくださいました。
 「85・夏・佐渡」が終わってその翌年、86年一月、全児演事務局長を退任されました。その時のご挨拶が残っています。
 ― 5年経ちました。私たちの劇団は本当に全児演に育てて戴きました。そのお礼の意味で、事務局長を引き受けさせて戴いて来たのです。これからの全児演は、創造問題を深めていく組織として、それを運動の中心の柱として行って欲しいと思います。小豆島での演劇祭典を考えています。佐渡でもそうでしたが、新しい実験が試されて欲しい。始め私たちは、「創造を探る祭典」をイメージしていましたが、(佐渡は)広がりすぎて「フェア=祭り」になりました。もう一度「深める祭典」を創り出したいと思っています。 ― と。
 そしてすぐにも「88小豆島演劇祭」の準備が始まりました。
 その後も、よく話し合っていた話題は ― 「地域に根ざす」とは、「地域に文化をつくる」というテーマだったと言うこと。地域の創造が深まると地域の連帯が強まる。創造問題とは「劇評する事」だけではない。新しい創造があるから、参加者は満足するのだ。この問題が語られるとき、プロもアマも、そこに接点があるのだ。 ― という会話をかわしておりました。
 八木亮三さんが87年一月、「オトトとチコの海」の創作と上演、及び四国高松に劇団を根付かせた活動にたいして、第九回全児演賞を受けられた時、受賞の言葉として、こう述べられました。
 ― さて、この受賞にどう応えるか。今まで通り、「核の時代」をどう生きたらよいのか。そのことを問い続けることが、未来への問いかけのすべてであり、現代を生きる全ての者の、課題 ではないかと思う ― と。
 ・・・なんと、フクシマを先見されていた  一句  ではありませんか。
 確かに八木亮三さんはご自分に対しても、厳しく生きて来られた方でありました。
 お疲れ様でした。どうか、やすらかに、お休みください。
 また、お会いしましょう。私たちが想い出しさえすれば、いつでも、お会いできるのですから。  合掌



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八木亮三 略歴

1923年        香川県小豆郡小豆島町(旧池田町)生れ。
1947年        旧ソ連ウズベク共和国での抑留より復員。
1948年        青猫座創立に参加。
             劇作家田中千禾夫氏に師事。
1960年        RNC放送劇団講師となり劇団員養成指導に当たる。
1961年~       香川県芸術祭運営委員。
1976年        劇団RNC創立(現劇団R&C)。代表となる。
1980年~1986年  全国児童・青少年演劇協議会事務局長。
1983年~       香川県演劇協議会運営委員長。
1984年        全日本子どものための舞台芸術大祭典実行委員。
1987年        小豆島演劇祭‘88合同実行委員会事務局長。
             (社)日本児童演劇協会理事。
1988年        国際児童青少年演劇協会日本センター監事。
1997年        第12回国民文化祭かがわ演劇祭委員長
2004年~2008年  香川県芸術祭(現かがわ文化芸術祭)運営委員会会長




      2012年12月18日永眠

受賞歴

1984年        劇団RNCが久留島武彦文化賞特別賞
1987年        全国児童・青少年演劇協議会賞
1989年        教育文化功労者(香川県教育委員会表彰)
1990年        文化庁「優秀舞台奨励公演」(ぴっちゃかポッチャカ物語)
1991年        劇団RNCが地域文化功労者(文部大臣表彰)
1992年        香川県文化功労者
2001年        山陽新聞賞(文化功労)